下北沢の朝は、夜に比べてずいぶん正直だ。
駅へ向かう細い道に、まだ開いていない古着屋のシャッターが並んでいる。ライブハウスの前には、昨日のフライヤーが少し湿ったまま落ちていて、コンビニのゴミ箱だけがやけに働き者みたいな顔をしている。
朝の光は、夜の出来事にあまり興味がない。
こっちがどんな気分で歩いていようと、ちゃんと街を普通に戻していく。
私は、昨日と同じ服で歩いていた。
別に、ものすごく悪いことをしたわけじゃない。
誰かを裏切ったわけでもないし、誰かに騙されたというほどでもない。
ただ、帰るタイミングを一回逃して、そのあと何回か、帰れるタイミングを見ないふりしただけだ。
相手は、少しいい加減な男だった。
待ち合わせには少し遅れてきた。
「ごめん、電車ミスった」と言って笑ったけれど、たぶん電車だけのせいではない。そういう人はいる。約束も、生活も、誰かの気持ちも、少しずつ雑に扱っているのに、なぜか似合ってしまう人。
下北沢の夜は、そういう男に甘い。
古着屋の看板、カレー屋の明かり、ライブ終わりの人たちの煙草の匂い。どこかの店から漏れてくる、知らないバンドの曲。全部が少しずつ、「まあ、いいじゃん」と言っている気がした。
一軒目では、映画の話をした。
二軒目では、昔住んでいた街の話をした。
三軒目では、もう何を話していたか覚えていない。
彼はよく笑った。
でも、ちゃんと聞いている感じはあまりなかった。
私の話を聞いているというより、自分がちょうどよく見える角度を探しているような人だった。
たぶん、本気にしてはいけない。
そう思ったのに、私は帰らなかった。
彼の部屋は、綺麗でも汚くもなかった。
本棚には読みかけの文庫があって、テーブルには飲みかけの水と、いつのものかわからないレシートがあった。いい加減な男の部屋には、いい加減な生活の証拠が、ちゃんと落ちている。
夜の間は、そういうものまで少しロマンチックに見えた。
朝になると、ただの床、ただの服、ただの沈黙になる。
彼はまだ寝ていた。
私はスマホを見た。通知は特になかった。
その瞬間、全部が急に普通になった。
大事にされなかった、というほどでもない。
傷ついた、というほど大げさでもない。
ただ、自分を少し雑に扱ったなと思った。
それがいちばん、あとから効く。
下北沢の朝は、夜よりも生活に近い。
駅へ向かう途中、開店前の店先にビールケースが積まれていて、眠そうな人が自転車で通り過ぎた。私はコンビニで水を買って、レジ横の肉まんを少し見て、買わなかった。
あー、東京の夜最高。
そう言えば、少しだけ笑える。
本当かどうかは別として、笑える言葉があるのは助かる。
ロマンチックって、たぶん、綺麗な恋のことだけじゃない。
ちゃんと間違えたあとに、朝の街をひとりで歩いて、それでも自分のことを全部嫌いにはならないでいられること。
いい加減な男の寝息を背中に置いて、ちゃんと駅まで帰ること。
小田急線のホームで、私は髪を結び直した。
昨夜のことは、誰かに話せば笑い話になるかもしれない。
話さなければ、自分の中の小さなシミになる。
でも、そのシミみたいなものまで含めて、たぶん私は東京の夜が好きなのだと思う。
あー、東京の夜最高。
今度こそ、もう少しちゃんとした靴で歩きたい。